ForumSORA について

◆感動体験プロデューサー ◆旅の専門家 「人生は旅と出逢いで決まる」 「一度きりの人生を最幸に楽しもう」  これが私のモットーです。 ■フォーラムソラ|ForumSORA 2002年よりフォーラムソラを主宰 『感動体験の舞台・地球』この奇跡の星により良い環境を残すには? 人間本来の使命と役割を探し求め、 地球規模の温故知新を巡る旅 【検証の旅】をオブザーバー木内鶴彦さんと共に展開中。 ~ 地球と共に生きる since2002 ~

月の誕生は一万五千年前だった【生き方は星空が教えてくれる】

おはようございます!

 

<今朝のフォーラムソラ語録>

『月の誕生は一万五千年前だった』

生き方は星空が教えてくれる(木内鶴彦著)より

 

<立ち読みコーナー>
●そうして私が導き出した月誕生の年代は、一万五千年前というものでした。
●巨大彗星が地球に接近し地球の環境を大きく変化させたのは、意外にもそれほど古い時代のことではありませんでした。すでに人類は誕生し、文化的な生活を営んでいたのです。
●月がもともと巨大彗星ならば、月のクレーターは、水分が気化し地球に吸い取られたあとにできたと考えることができます。クレーターというのは、損石が地表にぶつかったときの衝撃でできる窪みのようなものだからです。(中略)
●そこで一定期間この海の部分にできる新しいクレーターの数を観察し、平均的な数字を出します。そして現在あるクレーターの総数をその平均値で割れば、月が誕生したおおよその年代を特定することができます。
●こうしたクレーターの観察結果をもとに月の年代を測定したところ、やはりここでも約一万五千年前という、臨死体験から導き出した答えと一致する数字が出たのです。
<わたしの読書メモ>
 木内さんは、意識の世界で体験している事象の年代を、天空の星々の位置を記憶することで割り出しました。
 とくに地球に大カタストロフィー(天変地異)を与えることになった月の到来については、注意深くその年代を記憶してきたのでした。ノアの方舟にも登場する七日七夜の大洪水が月の到来の話とするならば、すでに人類がある程度の文明をもっていた時代となるからです。
 星々の位置から割り出した月の到来時期はなんと、約一万五千年前という、比較的最近の時代が割り出されました。しかし、私たちの歴史観からすると、あまりにも最近であることから、木内さんは月のクレーターの観測という、まったく別な方法からも時代測定を試してみたわけです。すると、やはり約一万五千年前という数字が出てきました。
 聖書を始め世界中の古文書には、まことしやかな話が登場します。「人類は4度文明を作った」「人類は地下からやって来た」「人類の一部は宇宙に回避した」「人類は恐竜と共存していた」・・・どれも興味深い話ですが、信憑性に欠ける話ともいえます。
 しかし、このような木内さんの体験や、現在の地球に残された手がかりをもとに、さまざまな検証を重ねてみると、どれもこれも、まんざら嘘ではなさそうなのです。
 もしも、これらが真実であったなら・・・・。過去の先人達が得た教訓が世界中にたくさん残っているはずなのです。それらは、今を生きる私たちの生き方の参考書にきっと成りえます。
 フォーラムソラでは、過去の先人の知恵や教え、今なお伝承されつづけるストーリーを世界中に求め、検証の旅へと繰り出しています。
 そのストーリーの真意をひも解くことによって「壮大なる温故知新」、つまり過去からの教えを未来につなげることにより、よりより地球環境を次の世代に手渡すことができるのでは!?と考えているからのです。

月の正体は巨大彗星だった【生き方は星空が教えてくれる】

おはようございます!

 

<今朝のフォーラムソラ語録>

『月の正体は巨大彗星だった』

生き方は星空が教えてくれる(木内鶴彦著)より

 

<立ち読みコーナー>
●私が「第二次臨死体験」の中で見た歴史では、誕生したばかりの地球に月はありませんでした。月は、巨大彗星だったのです。
●巨大彗星が太陽に近づいた際、太陽の熱によってガス化した水分が地球に扱い取られ、質量が少なくなった軽石のような核の部分だげが残り、地球の周りを回る衛星になったのです。
●月がもっていた氷状の水分が地球に降り注いだと考えれば、月の質量が地球より少ない理由も納得できます。巨大彗星がもっていた水が地球に降り注いだことによって、地球上の水分量は急増しました。
●「旧約聖書」のノアの方舟の物語をはじめ、世界各地には大洪水の伝承が広く残っています。七日七晩降りつづけた大雨によって高い山までが水の下に沈んだという伝承のすべてが想像の産物だとは、私には思えません。これらの伝承は月が誕生したときに地球に起きた大異変を伝えるものなのかもしれません。
●そこで私は考えました。もし地球で増えた水分がもともと月がもっていたものなら、それをそっくり月にもっていけば、きれいにフィットするはずだ、という仮説を立てたのです。
●私は、臨死体験での自分の記憶を頼りに、地球上の陸地と海の割合の変化から、増えたと考えられる水分量を計算し、それを現在の月と合わせてみたのです。すると、それは見事にバランスがとれたのです。
<わたしの読書メモ>
 木内さんにお会いし、初めてこの「月」のエピソードを聞いた時には、「本当かな?そんなわけないだろ~?」と私も耳を疑い、マコトシヤカな話をあざ笑うかのようでした。
 しかし、詳細を何度も聞いているうちに、自分の既成概念の中でしか事柄を判断できていない自分自身をしりました。
 いつも第二次臨死体験をしたのが木内鶴彦さんでよかったと思っています。なぜかといえば、木内さんには見てきた事象を検証するだけの知識やアイディアが備わっているからです。
 今回の月の検証も、地球の水分を月に戻してみたり、月のクレーター年代測定などで、ほぼ確証が得られるまで精度を高めています。私たちの体内時計も25時間だということは、よく知られていますが、これも地球から月を取り除いたときの自転と一致するのです。
 どうやら、ノアの方舟に代表される伝承の物語の数々は、ノンフィクションだった様なのです。フォーラムソラでは「宇宙の旅」を世界中に展開しています。
それは事実と思える伝承を木内さんと共に検証し、私たちの社会作りへのヒントを導きだそうとしているのです。

夢というにはリアル過ぎる第二次臨死体験【生き方は星空が教えてくれる】

おはようございます!

 

<今朝のフォーラムソラ語録>

『夢というにはリアル過ぎる第二次臨死体験』

生き方は星空が教えてくれる(木内鶴彦著)より

 

<立ち読みコーナー>
●私は心臓停止以前の体験を第一次臨死体験、心臓停止後の体験を第二次臨死体験と区別していますが、これは両者が「臨死体験」という一つの言葉でくくることができないほど性格を異にしているからです。
●第一次臨死体験で見た大河や故人との出会いというのは、三途の川のたとえがあるように古くからいわれていることでしたから、自分としてもある程度受け入れることができました。しかし第二次臨死体験は、夢というにはあまりにもリアル過ぎ、かといつて真実だと思うにはあまりにも常軌を逸していました。そのため、なかなか人に話す決心がつかなかったのです。
●私の臨死体験は、興味をもった先生方に話をしているうちに、さまざまな人の知るところとなりました。ホリスティック医学やターミナル・ケアの関係者などからも、話を聞かせてほしいと依頼を受けることが多くなっていったのです。
●そのころから、心臓が止まったあとに体験したことについても、自分である程度信じられるようになったものから、少しずつふれるようになっていったのです。
●しかしそれによって私の人生が大きく変化していくことになるとは、そのときはまだ夢にも考えていませんでした。(P-106-107)

<わたしの読書メモ>
 木内さんの「臨死体験」は、いわゆる一般的な「仮死状態」のものではなかったのでした。どうやら、「第一次臨死体験」とは人間の脳内プログラムの範疇のようです。
 そして、時空を飛び越え過去や未来を見てきたことは、心臓がすっかり停止した後のこととして「第二次臨死体験」と木内さんは定義しています。
 「第二次臨死体験」を体験する人は、けして木内さんだけでは無いのですが、肉体に戻れた人が今まで医学的見地から確認できていないのです。
 おそらく多くの場合は、すでに肉体が損傷していたり、「個」の意識が薄れてしまい、肉体に戻る意欲が無くなったいるのだと思われます。
 そんな「夢というにはあまりにもリアル過ぎ」、かといって「真実だと思うにはあまりにも常軌を逸している」第二次臨死体験。そこからの学びや仮説、検証が、その後の木内さんの人生を大きく変えることになったのは、当然と言えば当然ではないでしょうか。
 フォーラムソラでは、より良い未来の姿に進むべく、木内さんとさまざまな事象を検証し学びを深めています。その中でわかったことの一つに、答えの多くは過去に経験しているということです。それは伝承という形で今に受けつがれ、まるで未来に向けて警鐘を鳴らしているかのようなのです。

この星の環境バランスを整えていく以外に道はない【生き方は星空が教えてくれる】

おはようございます!


<今朝のフォーラムソラ語録>

『この星の環境バランスを整えていく以外に道はない』

生き方は星空が教えてくれる(木内鶴彦著)より

 


<立ち読みコーナー>
●自分たちが泣いたり笑ったりしながら生きているこの世界が、膨大な意識が暇つぶしのためにつくり出した世界にすぎないということは、空しいことのように思われるかもしれません。
●しかし、私がこのことを知ったときに感じたのは、生きることの素晴らしさと大きな喜びでした。
●このゲームにおいて、地球という惑星に誕生した生命の役割は、この星の奇跡のような環境バランスをいかに長く保ち、エネルギーを維持し生きつづけることができるかということです。
●この星で生まれた生命体は、この星の環境バランスを整えていく以外に生命を維持する道はありません。そして、どこよりも長く生きつづけたものがこのゲームの勝者となるのです。
●このゲームに参加している生命体は、私たちだけではありません。宇宙空間全体に、膨大な意識とアクセスしている生命体が、無数に散らばっているのです。私たちが宇宙人や異星人などと呼ぶ未確認の知的生命体も、この宇宙には存在しています。
●しかし、彼らも私たちも、すべては膨大な意識から発したものなのです。(P99)

<わたしの読書メモ>
 木内さんは個をなんとか持続させながらも、宇宙の始まりを目の当たりにしてきました。その時に知ったのは、私たちは膨大な意識の「暇つぶし」から成り立っているというショッキングな事実でした。
 これを、マリオ的にゲームでたとえれば、どれだけ場の環境を維持し、ゲームを継続できるかに掛かっている。つまりは、「この星の奇跡のような環境バランスをいかに長く保ち、エネルギーを維持し生きつづけることができるか」という宇宙規模のゲームが展開されていることを悟ったのでした。
 2012年現在、木内さんは一心不乱で地球環境のバランスの維持、よりよい環境の改善について取り組んでいます。答えを知った者として、その影響力の大小に関わらず、その取り組みを行う事が「地球という惑星に誕生した生命の役割」であることを学び得たからなのです。
 フォーラムソラには、私を含め木内さんと同様の体験をした人は残念ながら存在しません。しかし、多くの方が木内さんの体験談からインスピレーションを受け、この星の環境バランスと生態系維持に本気で取り組んでみようとしています。
 私たち万物全ては膨大な意識にアクセスしています。「このひとり一人の意識改革が結果的に膨大な意識を刺激し、末は個々の意識に変更を与える」という、大きなパラダイムシフトの可能性を強く信じ、私も活動に参画しているのです。

個はバーチャルなキャラクターだった【生き方は星空が教えてくれる】

おはようございます!

 

<今朝のフォーラムソラ語録>

『個はバーチャルなキャラクターだった』

生き方は星空が教えてくれる(木内鶴彦著)より

 

<立ち読みコーナー>
●私が想像していた「死」、つまり無の世界は、膨大な意識の世界でした。ここに取り込まれると、自分は宇宙そのものの一部になってしまい、個の意識を維持することが難しくなってしまうのです。
●蘇生してから、私はこのときの感覚をどう説明したら、人にわかってもらえるだろうかといろいろ考えてきました。そしていちばん近いと思われるものが、スーパーコンピュータのシステムでした。
●スーパーコンピュータという一つの膨大な意識があるとします。そのスーパーコンピュータは、自らの中に三次元という一つの世界を生み出します。その世界の中には、銀河があり、太陽系があり、太陽という恒星や地球という惑星があり、その地球の中でさまざまな生命活動が行われていきます。どんな小さなものもすべてはスーパーコンピュータの意識の一部です。したがって、その一部は全体にアクセスすることもできるのです。
●つまり、私たちはスーパーコンピュータが生み出したバーチャルなキャラクターを、個だと認識しているということになるのです。
●膨大な意識と一体になってわかったこと。それは、膨大な意識のままではとても退屈なことだということでした。すべてが記憶としてわかり、すべてが自分自身だということは、とてつもなく暇で、退屈で、それなのにこれといってやることもないのです。(P97-98)

<わたしの読書メモ>
 木内さんは「膨大な意識と個」をたとえて、「ファミコンゲームのマリオブラザース」の話しをよくします。
 マリオは二次元のTV画面のキャラクターです。それを操っているのは三次元にいる私たちなのでが、ゲームに没頭すると我を忘れてしまい、ついついマリオになりきってしまうことがあります。
 あの感覚が「膨大な意識(上位次元)」と「個(三次元)」なのだそうです。もしも生まれてこの方、TV画面のマリオしか見ていなかったらどうでしょうか?
 きっと、マリオを操っている自分自身(三次元)を想像することは危ういのではないでしょうか?
三次元の意識や叡智を持っているのに、二次元の、もしくは自分が操っているマリオとしての能力しか備わっていないものと考えてしまいます。
 私たちが、もしも上位次元(膨大な意識)をイメージとして捉え、その存在を意識して思考をはりめぐらせれば、きっともっともっと自分の才能を開花できるのだ、と私は木内さんの「マリオ」の話しを聞くたびに感じます。
 フォーラムソラでは「宇宙(ソラ)の旅」と題し、世界各国に繰り出しています。この旅では、既成概念を取り外しシックスセンス(第六感)を開くことを一つの目的にしています。
 木内さんと旅を共にし、またシックスセンスがすでに開かれているマスター達と交流することで、徐々に徐々に「マリオ」から抜け出し、本来の自分自身「上位次元の意識」を取り戻して行きます。
 そうすると、知らず知らず、自分自身の使命や人類としての役割、地球の生態系と環境のバランス・・・・、といった上位概念を捉えることが出来てきます。
 私は、これらのメッセージを受け止め、共に上位概念で物事を捉え、考え、行動できる仲間やコミュニティが今後は重要性を増すのだと考えています。

 

宇宙は「ひずみ」から始まっていた【生き方は星空が教えてくれる】

おはようございます!

 

<今朝のフォーラムソラ語録>

『宇宙は「ひずみ」から始まっていた』

生き方は星空が教えてくれる(木内鶴彦著)より

 

<立ち読みコーナー>
●空間を自由自在に動き回れることがわかると、私の好奇心はさらに大きく膨らんでいきました。宇宙の始まりを確かめたいという衝動に駆られたのです。
●天文を学んだものなら、誰しもが一度は考えること。それは、宇宙の始まりは本当にビッグバンなのかということです。
●私が見た宇宙の始まり、それはとても神秘的な情景でした。宇宙の始まりはビッグバンではなく、宇宙は一つの「ひずみ」から始まっていたのです。
●そもそもの初めにあったのは「膨大な意識」でした。膨大な意識そのものを形成しているものが何なのか、空間なのか物質なのかということは私にはわかりませんでした。ただそこが膨大な意識の中だということだげがわかるのです。
●膨大な意識の中に一つの「ひずみ」が生まれました。生まれたひずみは、その瞬間から解消に向かい動きはじめます。その動きこそが宇宙に満ちているエネルギーの流れにほかならないのです。
(中略)
●私たちの生きる三次元世界はこうしてたった一つのひずみから生まれました。正しくはひずみが解消に向かう過程が、三次元という空間と時間に支配されている世界だったのです。(P92-95)

<わたしの読書メモ>
 いよいよ、木内さんは宇宙の始まりのシーンを体験することになりました。なぜ「宇宙の始まりか?」といえば、天文を学んだ者の性とも言うべきでしょう。
 この壮大な宇宙が何なのか?始まりは何なのか?素人でもワクワクするテーマですが、専門家ならばなおさら興味を抱くテーマです。
 一般的にはホーキンス博士に代表される「ビックバン説」が主流をしめている宇宙創造論ですが、木内さんの体験によると、それは「ひずみ」だったのです。
 「ひずみ?」 わたしも初めてこの話を聞いた時には、なんともキツネにつままれたような、期待はずれのような気持ちになったことを覚えています。
 宇宙創造といえば、大スペクタクルのような、やはり壮大なシーンを勝手に思い浮かべてしまうからです。そして、この「ひずみ」の解消こそが私たちの三次元という世界だと木内さんは言います。
 先日、フォーラムソラでは木内鶴彦さんと共に、ハワイ島に地球創造の姿を検証に行きました。地球のマグマの活動も、太陽の核融合も、すべて「ひずみ」の解消という現象の一部ということになります。
 宇宙の大きさが果たしていか程なのか?それは私には全く見当がつきません。しかしその一方で「日々のちっぽけな事で、枠に囚われ悩んでいることがとても小さい意識に収まってしまっているんだな。」と今回は強く感じさせられました。
 常に対極的に物事を受け止め、せめて思考だけでも宇宙サイズで広げていきたいと思います。

二つのビジョンが同次元に存在する【生き方は星空が教えてくれる】

おはようございます!

 

<今朝のフォーラムソラ語録>

『二つのビジョンが同次元に存在する』

生き方は星空が教えてくれる(木内鶴彦著)より

 

<立ち読みコーナー>
●さらにもっと未来をと強く思うと、次に現れたのは初老の私でした。しかし目の前に広がっている世界は、先ほどのように鮮明なものではありませんでした。それは二つの情景が、まるで二重露出のフィルムのようにダブったものでした。
●主となって見えたのは、砂漠のように荒れ果てた大地で廃嘘の石に腰をかけ愕然としている自分でした。なぜ廃嘘になってしまったのか理由はわかりません。ただ、山には木が一本もなく、嘘の周りには多くの人たちが倒れていることだけがわかるのです。
●そのビジョンに重なるように見えていたもう一つの情景がありました。それは廃嘘のビジョンよりさらに不鮮明なものでしたが、緑の多い場所で星を見ている私でした。
●二つのビジョンが同時刻の同じ場所だということは、私の容貌と空の星の輝きが教えてくれていました。(P90-91)

<わたしの読書メモ>
 木内さんは意識の世界で近未来の自分の様子を見て、生還への確信を得ることに成功しました。
 そうなると、この「意識の旅」を有意義にしようという考えからか、はたまた単純に持ち前の冒険心からなのか、木内さんは更に先の未来を旅することにしました。
 するとそこには、二つのビジョンが同次元に存在していたと言います。これは「意識の旅」を経験していない私たちにはなかなか理解することができません。
 フォーラムソラで木内さんに、この事象について補足してもらったところ、二つのビジョンの差は人々の意識やそれに伴う行動による結果の違い、なのだそうです。
 特に確率が高い未来が鮮明に、そして低い未来がうっすらと、ビジョン化されています。同じ背景(自然の地形)に二つの文明の姿が重なって描かれている世界。おそらくフォノグラフで二つの映像を見比べるような感覚なのではないでしょうか。
 廃墟の世界と緑の世界。この時、木内さんは「緑の世界」が実現する確率は、なんと0.001%程度に過ぎなかったと伝えています。
 木内さんは2012年現在、未来の社会環境を改善する為に、また自然環境を保持・向上させる為に、具体的な活動を行っています。その活動起源となったキッカケが、この『二つのビジョンの存在』を知ったことだったのです。
 私たち一人ひとりの意識や考えが集団意識となることで、社会や政治、世界の秩序を変え得る力になることは、最近のソーシャル化の社会現象を見れば周知の事実です。
 この地球のよりよい環境があってこそ、生態系が存在し、人類の社会が存在することを、私たち一人ひとりが再認識しなくてはならない時がやってきたのだと私は強く感じています。

意識は未来ビジョンにアクセスできる【生き方は星空が教えてくれる】

おはようございます!

 

<今朝のフォーラムソラ語録>

『意識は未来ビジョンにアクセスできる』

生き方は星空が教えてくれる(木内鶴彦著)より

 

<立ち読みコーナー>
●私は再び考えました。過去に行くことができたのだから、未来へいくこともできるのではないだろうかと。
●これまでは行きたいと思う場所なり、会いたいと思った人なりをイメージすればよかったのですが、未来となると具体的に思い浮かべられるような記憶もありません。そこでとりあえず「未来」ということだげを強く思ってみました。
●すると、私は畳が敷き詰められた大広間のようなところにいました。そこでは中年の男性が三十人ほどの若者を相手に、何やら話をしています。
(中略)
●私は近づいて中年の男性の顔をのぞき込んでみました。老けてはいましたが、それはたしかに私の顔でした。私は天文の話を中心に地球環境の大切さを切々と訴えていました。
●それを見た私は、漠然とした希望を抱いたのです。中年の自分が存在しているということは、もしかしたら「生き延びられるかもしれない」と思ったのです。
(P90-91)

<わたしの読書メモ>
 木内さんの好奇心は目を見張るものがあります。これは、常に興味を持って生きることの大切さを教えてくれています。肉体を離れたという、のっぴきならない状況であっても、すぐに応用を効かせ探究心を働かせるところはさすがです。
 まずは漠然と未来をイメージしたそうですが、それで意外に簡単に未来に行けたことは驚きです。しかし冷静に考えてみると、確かに自分の未来が無かったら未来をイメージしても決して行くことは出来ないのではないでしょうか。
 その意味では、未来の自分(初老の自分)を見た驚きよりも、臨死の自分に未来があることへの驚き、希望、救いを感じたのは自然だったかもしれません。
 木内さんは生還したのち、1994年10月「将来世代フォーラム」の講演という形で、このシーンを実際に体験することになるのです。
 このことは、木内さんの一連の意識の旅は、夢ではなく現実であったことを示しています。私たちは三次元の世界で生まれ一生を終えますから、時空を超えた上位次元のことはなかなかイメージできません。
 しかし、それは既成概念にとらわれていることに他ならないと私は思います。『意識は未来ビジョンにアクセスできる』のですから、たとえ三次元の民であっても、常に未来に意識を向けて希望を持って生きること。それが私たちの使命に繋がっているのではないでしょうか?そんなことを今回は考えさせられました。

意識は過去も未来も行くことができる【生き方は星空が教えてくれる】

おはようございます!

 

<今朝のフォーラムソラ語録>

『意識は過去も未来も行くことができる』

生き方は星空が教えてくれる(木内鶴彦著)より

 

<立ち読みコーナー>
●そうです、私は考えるだけで空間を瞬時に移動することができるようになっていたのです。
●戸惑いながらも「俺は大丈夫だから」といい残し、私は兄の体から出ました。 兄の体を出て、病室に戻ったものの、私の体は相変わらずの状態でした。
●医師や看護婦さんたちが一生懸命蘇生処置をとってくれているのを見ているだけで、自分では どうすることもできないのです。そこに横たわっているのはたしかに私の肉体なのですが、何をされても何も感じない。それは自分と非常によく似た他人の体を見ているような、不思議な感覚 でした。
●私は、どうすることもできない自分の肉体のことよりも、この不思議な現象のほうに興味をそそられるようになっていきました。強く思うだけで空間を自由に飛び越えることができる。それも瞬間的に移動できるのです。何度かそうしたことを体験しているうちに、好奇心が頭をもたげてきました。
●今の自分は肉体をもたない、いわば意識だけの存在だ。もしかしたら意識だけの存在になると空間や時間の制約を受けなくなるのかもしれない。もしそうならば、過去や未来にも行くこともできるかもしれない、そう考えたのです。
●私は迷うことなく、自分が六歳のときのある夏の日をイメージしました。(P86-87)

<わたしの読書メモ>
 木内さんと常日ごろお話していて感じるところ。それは強烈な洞察力です。
 フォーラムソラの定例会では、政治、経済、国際情勢、精神、宇宙、科学や物理・・・と、さまざまな質問が木内さんに投げかけられますが、その都度ほとんど完璧に “わかりやすく” 答えてくれます。
 感化されるのをあえて避けるために、参考文献など他の書籍から情報を入手することはないそうなのですが、日々の生活や、おかれた環境、世界観を統合して語られる意見には、オリジナリティーと独特の説得力にあふれていています。
 さて、今回は木内さんが意識の大冒険に繰り出す、まさにその瞬間の様子です。木内さんは、自分に良く似た体(自分の肉体)よりも、 空間を瞬時に移動できる今の自分の状況に興味を抱いています。
 こんな状況でも、「なぜ?」に対する興味は尽きることがありません。同じ時間を移動できるのなら、過去や未来も行けるはず? と仮定してしまうところが、木内さんならではでないでしょうか?
 何万光年という時空を超えた天体に没頭していた木内さんだからこそ、過去や未来という縦軸方向の移動まで考えついたのだと思います。
 この意欲的な行動のおかげで、私たちは現在、過去の出来事や未来の予測を木内さんの体験を通して知ることができるのです。
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■木内鶴彦と行く「宇宙(ソラ)の旅 ハワイ島」報告会

2012月10月28日(日)14:00~16:50
港区立勤労福祉会館にて
→問合せはこちらから←

意識と肉体は異なった2つの自分自身【生き方は星空が教えてくれる】

おはようございます!

 

<今朝のフォーラムソラ語録>

『意識と肉体は異なった2つの自分自身』

生き方は星空が教えてくれる(木内鶴彦著)より

<立ち読みコーナー>
●トックン、トックンと脈打っていた拍動がクッと止まったのが自分でもはっきりとわかりました。「あっ、心臓が止まった」 その後「息ができない」と感じているのですが、痛みも苦しみもありません。母の顔が私に近づき、体を揺さぶりながら「死んじやった!」といっているのもはっぎりと聞いていました。
(中略)
●「俺はここにいるのに、どうしてべッドの上にも俺がいるんだ!」
目に映った情景が理解できず、私は完全にパニック状態に陥っていました。自分自身の意識が連続してあるため、自分は生きているのだと思っていたのです。
●しかし、呼べど叫べど父は私の声に反応しません。耳元で叫んでみようと、父に近づいていくと、突然、私の視線がべッドに横たわる自分の体をとらえました。辺りを見ようとしても視線が動きません。おかしいな、と思ったとき、先ほどまでは見えなかった鼻っ柱が視界の中にありました。
●そこでやっと気づきました。私は父親の肉体に入り込み、父の目を通して見ていたのです。このまま父の体にいてはいけない、そう思った私はもう一度「俺は生きている」といって父の肉体から出ました。
●そうしている間に、看護婦さんが病室に駆け込んできました。看護婦さんは父に病室の外に出るようにというと、すぐにべッドの上の私の体にまたがり、心臓マッサージと人工呼扱を始めます。他の看護婦さんも次々と駆けつけ、酸素ボンべをつけたりさまざまな処置をしていきます。
●私はそれらを何とも不思議な気持ちで見つめていたのです。(P83-85)

<わたしの読書メモ>
 木内さんは、三途の川のあたりの旅から帰ったわけですが、そのタイミングでは体がキチンと機能していました。しかし、危篤状態であるわけですから、先ほどまでの自由が全て失われる現実と再度向き合う時の辛さは、言葉に言い表せないものなのでしょう。
 死を覚悟し、せめて病名だけでも確認したい。その思いが体を動かしましたが、しかしそれとは裏腹についに心臓が停止してしまいました。
 そして、ここが肉体から意識への「個」のスイッチング・ポイントです。息が出来なくても苦しくない。横たわる自分を見つめる家族が見える。さらには、父の体に取り着いてしまう意識としての自分自身。
 木内さんの場合、「このままではいけない」と思いお父さんから抜け出たから良かったものの、現生への執着が強すぎると、このまま居座ってしまうこともあるそうです。
 そんな事故を防ぐためにも、脳プログラムは心地よい臨死体験を用意し、死に対する恐怖を取り除き、安心感を与えるようになっているのではないでしょうか。
 さて、フォーラムソラ・定例会で、このシーンについて木内さんに質問を投げかけてみました。
お父さんの体の中で「俺は生きている!」と叫んだ時、お父さんはどんな感じだったのか?と聞いてみました。すると、お父さんは頭のどこかで「俺は生きている」という木内さんの声を聞いたのだそうです。
 その後、自分の「肉体」に処置が施される様子を自分の「意識」で見ていた訳ですが、これは肉体と精神(意識)が別のものであることを物語っています。
 私たちは日頃、物理的(肉体)な面だけで物事を捉えようとしていますが、精神的(意識)な面をもっと意識し、判断や行動を取るべきではないでしょうか?
 そうすれば、「もっと相手の立場になったり、他の生き物や地球環境の事を思いやった言動を選択できる。」と私は確信しています。